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世相を眺める [読書]

 元号が変わったので、明治などというのは遥か昔に感じられますが、わたしの父親や祖父母は明治生まれです。柴田宵曲『明治風物誌』(ちくま学芸文庫)を見ていると、アレッと思うことが載っています。


「カバンという言葉は前からあったが、鞄という字にきまったのは明治十年あたり」だそうです。博覧会が閉会した後、売れ残ったカバンの始末に困って、残品販売するとき、革 包と二字で書くのを、いっそ鞄の一字にしたらどうだと云い出して、それでカバンの漢字ができたそうです。


 また、郵便というものができた当時、ポストは黒塗りの函だったそうです。いつから赤になったのか、正岡子規が『病牀六尺』に「自分の見た事のないもので、一寸見たいと思ふ物」を列挙した中に、「紅色郵便箱」があるので、明治三十五年にはあったのだろうと書いています。


 当地に住むようになって、近くに古びた赤い円筒状のポストが立っていて、現役なのか、投函してもだいじょうぶなのか、不安になりましたが、あれから 15年になりますが、まだ現役です。先日、芦屋市に出かけましたが、街中に同型のポストを見かけました。案外、円筒状のも残っているようです。


 『明治大正史 世相篇』という柳田國男の本もあります。こんなのを眺めていると、祖父母や父母の暮らした時代の雰囲気が感じられ、なぜか懐かしい気がします。平成も終わり、これからはどんな時代になるのでしょう・・・。



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父親をめぐる冒険 [雑感]

  散歩の途中、久しぶりに、昔からの本屋さんに立ち寄ってみました。30分ほど店内を見てまわりましたが、これはと思う本がないので、困ったなと、何か文庫本でもと眺めましたが、結局、「文藝春秋」を買って出ました。


 小さな店で、さんざん見回ったすえ、何も買わないで店を出るのは何か気まずいものです。「文藝春秋」を買ったりしたのは、ほんとうにいつ以来だろう。


 目次を見ると「猫を棄てるー父親について語るときに僕の語ること」村上春樹というのがありました。どうも村上春樹が自分の家族歴を記載しているようです。彼も 70歳になって、父親の来歴を書く気になったのでしょう。


 彼の父親は大正 6年12月 1日、京都市左京区粟田口にある安養寺という浄土宗の寺の次男として生まれたそうです。18歳で光明寺に付属した西山専門学校へ入学し、僧侶の勉強をする。20歳で徴兵され、輜重兵という補給の任務について中国へ上陸する。


 彼は村上春樹に「自分の属していた部隊が、捕虜にした中国兵を処刑した」と一度だけ語ったことがある。彼の属した第16師団は戦死率 96%という悲惨な結果になるが、彼は幸いその前に除隊になる。1944年10月、京都帝国大学文学科に入学する。


 戦後、結婚し、1949年1月、村上春樹が生まれ、彼は大学院をやめ、西宮市にある甲陽学院の国語教師になる。彼は毎朝、食前に小さな菩薩像に向かって長い時間、目を閉じて熱心にお経を唱えていたそうです。彼は俳句に関わり続け、「兵にして僧なり月に合掌す」というのが西山専門学校の俳句雑誌に載っていたそうです。


 子供の頃、村上春樹は父親と一緒に、西宮の映画館や甲子園球場へよく行ったそうです。しかし、成長につれて「僕と父親とのあいだの心理的な軋轢は次第に強く、明確なものになった」とのことで、職業作家になってからは絶縁に近い状態となり、「二十年以上まったく顔を合わせなかった」。


 九十歳を迎えた父親は糖尿病と癌になって、京都の西陣にある病院に入っていた。「父とようやく顔を合わせて話をしたのは、彼が亡くなる少し前のことだった。」村上春樹は六十歳近くになっていた。


 「そしてこうした文章を書けば書くほど、それを読み返せば読み返すほど、自分自身が透明になっていくような、不思議な感覚に襲われることになる。」「この僕はひとりの平凡な人間の、ひとりの平凡な息子に過ぎない」


 散歩から帰って、水を飲み、ペラペラと「文藝春秋」を繰っていくと、汗がひきます。目次を見ると、他にも「文藝春秋にみる平成史」半藤一利というのもありました。しばらくは楽しめそうです。




 

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金田一先生の事件簿 [読書]

  今日は「母の日」です。わたしは子供の頃は「オカーチャン」と呼んでいました。金田一春彦『ことばの歳時記』(新潮文庫)によると「おかあさん」という言葉は、比較的新しく、明治三十年ごろに文部省で作った小学校国語の教科書にはじめてお目見えした言葉だそうです。


 当時、東京では、士族は「オカカサマ」といい、町人は「オッカサン」と言っていて、その中間をとって「おかあさん」とう言葉ができたそうです。そういえば古典落語には「おかあさん」は出て来ないようです。


 岡茂雄『本屋風情』(角川ソフィア文庫)には金田一春彦のオトーサンの金田一京助の話が出てきます。大正十五年、岡書院を営んでいた著者は、柳田國男に「金田一君が畢生の仕事として、アイヌのユーカラの解説研究を欧文で書き上げ、学位論文として帝大に提出したが、だれも審査するものがなくて、付属図書館においたんで震災で焼けてしまった。」とのことで、金田一が落胆、消沈しているので、和文でもいいから、もう一度、思い直してやってくれるように勧めて、出版してやってくれないかと言われたそうです。


 そこで著者は、阿佐ヶ谷の金田一邸を訪ねる。「いかにもささやかな平屋建てが、ポツンと佇んでいた。玄関の扉といい、柱また壁といい、お世辞にも立派とはいえないどころか、正しくいえば、粗末極まる建物であった。」


 紆余曲折があって、金田一の草稿が進み出すと、相当な大冊になりそうだが、特殊な本だけに、どう考えても三、四十しか売れそうもなく、民間の出版社では歯がたたず、結局、財団法人・東洋文庫に引き受けてもらうことになり、昭和六年一月、『アイヌ叙事詩 ユーカラの研究』が出版される。


 金田一京助は石川啄木と同郷で、借金魔の啄木を支えたことが知られていますが、八十六歳になって書いた『私の歩いて来た道』という自叙伝では、『ユーカラの研究』の出版に関わる記述が、どうしたことか、ほとんど事実と相違していたそうです。


「先生はときどき、話を御自分のつごうのいいように、お作りになる風があって困った」と五十年来の弟子が、声をひそめて洩らしたそうです。 大きな仕事を成す人は、やはりどこか常人とは違うのだなぁと感服します。

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新幹線から見える [徘徊/旅行]

   新幹線は車窓の風景を眺めるのには適していません。東海道もいつまでたっても、富士山くらいしか、見たという実感がわきません。いろんな物が見えているはずなのに・・・。


 一坂太郎『カラー版 東海道新幹線歴史散歩』(中公新書)をみると、大井川は新大阪駅から 325キロ・1時間26分、東京駅から 190キロ・58分にあるそうです。


   熱田(宮宿)から桑名へ海上を渡る「七里の渡し船着場跡」は新大阪駅から 180キロ・53分、東京駅から 334キロ・1時間31分で E席側に見え、その後ろに熱田神宮の森が見えるそうです。


 新幹線は移動の手段としか思えないのですが、あらかじめこの本で時間と、どの席側かを調べておけば、いろんな物が見えるようになりそうです。移動中の退屈しのぎによいかもしれません。




 

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