So-net無料ブログ作成

上京者の秘密 [読書]

  大学受験のとき、あまり遠くの学校は受ける気にはなりませんでした。せっかく遠方へ受験に行っても、受からなかったらしんどいと思っていました。結果として関西の近くで済ませました。


 大学を卒業して、仕事に就くときも、手近な職場を選びました。以来 46年、同一県内で働いています。働き始めた頃、東京へ行った友人が電話で、東京へ出てこいと誘ってくれましたが、そんな気にはなりませんでした。


 岡崎武志『上京する文學』(ちくま文庫)は <故郷をあとにした作家たち、もしくは上京する若者を描いた作品たちを、「上京者」という視点から読んでみた> という本です。寺山修司、井上ひさし、宮沢賢治、松本清張、村上春樹、野呂邦暢、川端康成など 19人が取り上げられています。以前に読んだ著者の『ここが私の東京』(扶桑社)の前に書かれたもののようです。


 <上京者の清張は、作品の舞台として東京を多く描きながら、同時に東京を起点に地方へと目を向けた。(中略)清張の作品群は、地方をよく知る者の目が、東京という巨大な都市を見た時にどう映るかという実験でもあった。> と書いています。


 わたしは松本清張をほとんど読んでいないのですが、彼が地方と東京との関係に関心があったというのは分かるような気がします。「上京者」各人をそれぞれに、おもしろく語っています。



nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

映画の中の風景 [読書]

  今日は青空が見えて、羊雲が浮かんでいます。風が乾いていて、秋の気配を感じます。夏休みが終わったと思ったら、近隣の小学校ではもうインフルエンザが流行っているそうです。


  小狐の何にむせけむ小萩はら (与謝蕪村)


 このあいだ買ってきた、川本三郎『銀幕の東京』(中公新書)を読んでいると、小津安二郎の映画『東京物語』で娘・杉村春子が営む美容院は、浅草の吾妻橋のあたりの路地裏を模したセットだそうです。また、息子・山村聡の「平山医院」の場所は足立区千住で、東武伊勢崎線堀切駅の近く、荒川土手の下とのことです。



 このあたりは昭和6-7年ごろ永井荷風がよく散策した場所だそうで、小津の日記では昭和28年4月、彼は「荷風全集」を買って読み、その後、荷風が好んで歩いたところへ、ロケハンに出かけているそうです。


 かって、わたしの息子も千住に住んでいたことがあり、あの辺りは何度か歩きましたが、いま思えば『東京物語』の中を彷徨いていたのかと、過ぎにしかたがよみがえります。


 川本三郎は「あとがき」に「個人的な思い出になるが、昭和二十九年の冬休み、小学校四年生の私は、兄たちと一緒に築地の東劇にアメリカ映画「ホワイト・クリスマス」を見に行った。映画そのもののきらびやかさもさることながら、映画の帰りに見た築地川に映るネオンの美しさと銀座のにぎわいが忘れられない。はじめてのロードショー体験であり、はじめての銀座体験だった。」と書いています。


  ひぐらしはさびしきものか淡々(あはあは)と

     過ぎにしかたのよみがへりくる (北 杜夫)



nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

坂の上の赤トンボ [読書]

   十年ほど前、テレビで『坂の上の雲』のドラマが放送された折、家内が司馬遼太郎の原作を読むといって、文春文庫を8冊買ってきましたが、そのままになっていました。今年の4月になって、読む気になって、週末ごとに家内が朗読するので、聴いていましたが、先日、読了しました。


 話題の多い小説なので、内容はあらかた聞き知っていましたが、いずれにしても長い。昭和43年から産経新聞に4年間にわたり連載したそうですが、毎日、少しずつ読むのは良いとしても・・・自分が調べたことは全て書くという気持ちは伝わってきますが・・・。


 新聞連載時期はちょうど、わたしの大学生時代と重なりますが、そのころは産経新聞や司馬遼太郎を読むという気分はありませんでした。司馬遼太郎を初めて読んだのは三十代のころに『ひとびとの跫音』という正岡子規の妹・律の養子などの話だったと思います。その後、『空海の風景』とか『街道をゆく』などは読んで楽しみました。


  一度、『菜の花の沖』という高田屋嘉兵衛(わたしの郷里の人)が主人公の小説を読み始めたことがありますが、全6巻の半分くらいで飽きてしまいました。やっぱり彼の小説は読めないと以後、手にしませんでした。


 今回も朗読を聴くというかたちでなかったら、とても最後までたどり着けなかったと思います。聴いている分には、退屈なところは、自然とふと眠っていられます。


 沖ノ島の宗像大社・沖津宮に仕える佐藤市五郎という人が木に登って、明治38年5月27日の日本海海戦を見物していたそうですが、わたしは昭和32年ころ、村の集会場で『明治天皇と日露大戦争』という映画を観ました。鞍馬天狗の嵐寛寿郎が明治天皇を演じていました。東郷平八郎は田崎潤だったそうです。


 司馬遼太郎は旅順要塞を攻める乃木希典を無策、無能と難じていますが、わたしも映画を観ながら、子供心に「なんと悲惨で残酷な戦いか」と辟易した記憶があります。数年前に読んだ古川薫(山口県生まれ)の『斜陽に立つ』(毎日新聞社)では乃木将軍を擁護していて、またおもしろい読み物でしたが・・・。


 日露戦争のころ、ちょうど夏目漱石は『吾輩は猫である』を書いていました。


   生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉 (漱石)


nice!(5)  コメント(2) 
共通テーマ:日記・雑感

暑い夜に閑話 [読書]

  台風が通り過ぎて、一気に真夏になりました。今日は暑さになじんでいないせいか、体が少しふらつくような感じがします。この夏をどうやり過ごすか、思案します。


 この間から読んでいる森銑三『明治人物閑話』(中公文庫)には、井上通泰という人物が出てきます。眼科医で歌人、国文学者で、森鷗外と親交があったひとです。播州の生まれで柳田國男の実兄だそうです。


 著者の森銑三は昭和十年代ごろ、よく井上の別荘を訪れ、本を見せて貰ったり、雑談を聴いたりしたそうです。いろんな話が出てきます・・・


 <鷗外の両親のことを問うたのに、先生は答えて、森のおっかさんは清少納言で、幸田(露伴)のおっかさんは紫式部だと、僕等の仲間ではいっていたよ、といわれた。才女とまではいわれなかったが、とにかく才気の勝った婦人だったことを、十分に認めていられた。>


 <いつのことだったか、鷗外が使者となって、井上先生を訪問して、今度君に文学博士を贈ることになったから受けて貰いたい。しかしそれに就いては、大学側の連中とも、今後は融和して行って貰いたい、という意嚮を伝えた。しかしそれを聞いた先生は、納らなかった・・・そういう条件つきで文学博士となることなどは御免を蒙る。> 鷗外はそれ以上に一言も口をきこうとせずに、辞去したそうです。


 <私があまりに鷗外のことを聴きたがったからであろうか、いつだったか、鷗外の人物に就いて尋ねたら、うん、悪いことはせぬ男だった、と簡単な一言で片附けられて、それなりになってしまったこともあった。>


 この後、夏目漱石のこと、成島柳北、斎藤緑雨といった人たちの話題が続きます。暑い夜に寝転んで読むのにちょうどよい本のようです。

nice!(5)  コメント(2) 
共通テーマ:日記・雑感

島と岬 [読書]

  7月になりました。ここ数日、雨が続いています。間食に、先日いただいたマンゴーを食べました。香りが強く夏の気分になります。


 大学生のころ、奄美大島で泊めてもらった家の庭にパパイヤが実っていたのを思い出します。フィラリアで象の足のようになった人の話や、火のついたタバコを指に挟んで野道を歩いていて、手をハブにうたれた話などを聴いた覚えがあります。ハブは熱に向かって飛びかかってくるそうです。


 内陸は知らないが、本土も港ならほとんど知っていると宿のおじさんは言っていました。船乗りの世界観なのでしょう。


   柳田國男は『明治大正史 世相篇』にこんなことを書いています。 <帆船の時代には、風が吹き止めば浜に漕ぎ寄るから、よんどころなしの寄港地も多く、一つ風でも曲り角から先は役に役に立たぬゆえに、岬の突端は大抵はみな風待ちの湊であり、それがために土地も栄えたのであった。汽船の時代が来ればそんな処に上陸はしたくない。少しでも中央の用のある部分に接近してから碇泊してもらいたいのである。だから近世にはいよいよ忘れられた湊が多く、岬はほとんどみな島以上の僻村にもなったのである。>


 時代により土地の栄枯盛衰の見られる事情が分かります。


 そういえば、メンデルスゾーンに「静かな海と楽しい航海」という曲がありますが、帆船の時代には「静かな海」は船が進まない困った状態で、風が吹いてはじめて「楽しい航海」になるんだと、あらためて感じます。時代が変わると分からなくなることも多いようです。


 

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

こころに残る短篇小説 [読書]

 短篇小説は 30分もあれば読めてしまうので、寝る前に読むことがあります。エッセイに近いものから、文字によるスケッチ、奇妙な話、寓話風のものなど風味はいろいろですが、一年もすると、ほとんど内容は忘れてしまいます。覚えているつもりでも再読すると、こんな話だったかなぁと、思い違いに気づきます。


 日本のもので記憶に鮮やかに残っているのは、


  庄野潤三「プールサイド小景」

  開高健「玉、砕ける」

  宮本輝「力道山の弟」

  三浦哲郎「みのむし」


 などです。

 そういえば「力道山の弟」は5年ほど前、短篇小説のアンソロジーで読んだのですが、もともとは、なんという本に入っていたのかと調べてみると、1990年出版された短篇集『真夏の犬』の中の一篇で、今は文春文庫になっていました。宮本輝は 40年近く前に一冊読んだことがあるくらいで、あとは映画『泥の河』の原作者という程度の知識しかありません。


 舞台は昭和30年代の阪神間の尼崎。駅前に力道山の弟と名乗る香具師がやって来る。


 <男は、力道山に生き写しだった。私は、テレビで観た力道山の顔を頭に描きつつ、男を見つめた。男は、自分を取り囲んだ人々の数を確かめてから、煉瓦を空手チョップで割った。>


 小学校五年生の私と父、母、父の友人の妻などの世界が、力道山の弟の出現によって軋んでゆく。猥雑な時代を生きる人間の劇が描かれています。


 昭和30年代って、そんな時代だったな・・と思い、そういえば、あの頃、隣町のあたりでは、村上春樹も彼の「父と子」の問題の中で生きていたんだろうと推測します。いずれにせよ、この現代も、殻を破れば同じ事なんだ・・と、最近の父と子をめぐる事件を思い浮かべます。



nice!(4)  コメント(2) 
共通テーマ:日記・雑感

オレンジ色の猫 [読書]

  小学五年生のころ、兄に大阪・梅田の映画館へ連れて行ってもらった記憶があります。『黄色い老犬』という映画でしたが、内容はほとんど覚えていません。


 以前、鈴木孝夫『日本語と外国語』(岩波新書)を読んでいると、米国での経験として、こんなことが書いてありました。「レンタカーに電話をして車を頼むと、十分ほどでオレンジ色の小型車が迎えに行くから・・・(中略)・・・約束の十分を大分過ぎても、それらしき車は一向に現われない。・・・少し離れたところに茶色の車が止まっていて・・・男は平然として、この車は orange よ、と答えたのである。」


 著者は積年の疑問が解けた気がする。アガサ・クリスティの『沢山の時計』に 出てくるorange cat(オレンジ色の猫)や「赤毛のアン シリーズ」の orange cat(みかん色の猫)は日本語でいえば「明るい茶色」の猫で、そんなに変わった色の猫ではないと体感できたのです。


 「日本人の目には茶色の一種としか見えない色彩も、時には色としての orange に含まれることに注意」とのことです。


 小学生の頃に観た『黄色い老犬』はどうなんだろう。原題は『OLD YELLER』ですが、やはり映画の中の犬は普通の茶色い犬でした。yellow も日本語の黄色より茶色の範囲までも含むのかもしれません。こどもの頃、「黄色人種」という言葉を知って、自分の肌を見て、なぜこれが黄色なんだと不思議に思ったものです。


 翻訳本に「オレンジ色の猫」や「黄色い犬」が出てきても、不思議の国のアリスの世界ではなく、普通の薄茶色い猫や犬なんだと思う必要がありそうです。


            (引用文太字は原文では傍点)

nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

世相を眺める [読書]

 元号が変わったので、明治などというのは遥か昔に感じられますが、わたしの父親や祖父母は明治生まれです。柴田宵曲『明治風物誌』(ちくま学芸文庫)を見ていると、アレッと思うことが載っています。


「カバンという言葉は前からあったが、鞄という字にきまったのは明治十年あたり」だそうです。博覧会が閉会した後、売れ残ったカバンの始末に困って、残品販売するとき、革 包と二字で書くのを、いっそ鞄の一字にしたらどうだと云い出して、それでカバンの漢字ができたそうです。


 また、郵便というものができた当時、ポストは黒塗りの函だったそうです。いつから赤になったのか、正岡子規が『病牀六尺』に「自分の見た事のないもので、一寸見たいと思ふ物」を列挙した中に、「紅色郵便箱」があるので、明治三十五年にはあったのだろうと書いています。


 当地に住むようになって、近くに古びた赤い円筒状のポストが立っていて、現役なのか、投函してもだいじょうぶなのか、不安になりましたが、あれから 15年になりますが、まだ現役です。先日、芦屋市に出かけましたが、街中に同型のポストを見かけました。案外、円筒状のも残っているようです。


 『明治大正史 世相篇』という柳田國男の本もあります。こんなのを眺めていると、祖父母や父母の暮らした時代の雰囲気が感じられ、なぜか懐かしい気がします。平成も終わり、これからはどんな時代になるのでしょう・・・。



nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

金田一先生の事件簿 [読書]

  今日は「母の日」です。わたしは子供の頃は「オカーチャン」と呼んでいました。金田一春彦『ことばの歳時記』(新潮文庫)によると「おかあさん」という言葉は、比較的新しく、明治三十年ごろに文部省で作った小学校国語の教科書にはじめてお目見えした言葉だそうです。


 当時、東京では、士族は「オカカサマ」といい、町人は「オッカサン」と言っていて、その中間をとって「おかあさん」とう言葉ができたそうです。そういえば古典落語には「おかあさん」は出て来ないようです。


 岡茂雄『本屋風情』(角川ソフィア文庫)には金田一春彦のオトーサンの金田一京助の話が出てきます。大正十五年、岡書院を営んでいた著者は、柳田國男に「金田一君が畢生の仕事として、アイヌのユーカラの解説研究を欧文で書き上げ、学位論文として帝大に提出したが、だれも審査するものがなくて、付属図書館においたんで震災で焼けてしまった。」とのことで、金田一が落胆、消沈しているので、和文でもいいから、もう一度、思い直してやってくれるように勧めて、出版してやってくれないかと言われたそうです。


 そこで著者は、阿佐ヶ谷の金田一邸を訪ねる。「いかにもささやかな平屋建てが、ポツンと佇んでいた。玄関の扉といい、柱また壁といい、お世辞にも立派とはいえないどころか、正しくいえば、粗末極まる建物であった。」


 紆余曲折があって、金田一の草稿が進み出すと、相当な大冊になりそうだが、特殊な本だけに、どう考えても三、四十しか売れそうもなく、民間の出版社では歯がたたず、結局、財団法人・東洋文庫に引き受けてもらうことになり、昭和六年一月、『アイヌ叙事詩 ユーカラの研究』が出版される。


 金田一京助は石川啄木と同郷で、借金魔の啄木を支えたことが知られていますが、八十六歳になって書いた『私の歩いて来た道』という自叙伝では、『ユーカラの研究』の出版に関わる記述が、どうしたことか、ほとんど事実と相違していたそうです。


「先生はときどき、話を御自分のつごうのいいように、お作りになる風があって困った」と五十年来の弟子が、声をひそめて洩らしたそうです。 大きな仕事を成す人は、やはりどこか常人とは違うのだなぁと感服します。

nice!(8)  コメント(2) 
共通テーマ:日記・雑感

川を渡る [読書]

 東海道といえば箱根の関所とか大井川の川渡しが思い浮かびます。箱根には何度か行って、関所跡も見学したことがありますが、大井川はいつも、知らない間に新幹線で通り過ぎるだけです。


 川渡しといっても、大の大人を肩車して流水に腹まで浸かって大河を横切るのは、大変な労力だっただろうと思います。


 池内紀『東海道ふたり旅 道の文化史』(春秋社)は宿場跡を訪ね、歌川広重の五十三次シリーズを参照し、江戸時代の旅のようすを教えてくれます。


 駿州島田宿の西方に大井川の越場があり、幕末には川越人足が 650名いたそうです。日によって川の深さと川幅が変わるので渡し料も変化し、水量が帯下で 52文だそうです。今の 600円位でしょうか。肩車ではなく連台に乗ると、人足 が4人になり、値段は 6倍になるそうです。

 

 川越人足になるためには十二、三歳から修行に入り十五歳で見習い、厳しい審査のすえに採用され、五十歳で定年だそうです。


 明治になって架橋されるまで、大井川は江戸の防衛のため、橋も渡船も許されなかったそうですが、現実には南アルプスからの豊富な水流のため、橋を架けても、維持できなかったようです。明治 12年にできた蓬莱橋(897.4m)は木橋としては世界最長だそうです。いつかゆっくりと大井川を眺めてみたいものです。





nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感